楠公さんご遺像について (神社建築趣意書による)

ご神体は、水戸光圀(水戸黄門さま)が元禄4年1691 (約330年前)に広厳寺(兵庫県神戸市)に寄贈した楠木正成公のご遺像としての木像の3体のうちの1体になります。

他の2体は現存しておらず、広厳寺住職の話では先の大戦での空襲で焼失したとのことです。その歴史文化的に貴重なこの1体が楠木神社のご神体になります。

  • 木彫りの極彩色の立像
    • 長さ 7寸    23,1cm
    • 大袖 1寸6分    5,3cm
    • 弓   6寸2分   20,5cm
    • 矢    3寸        1,0cm
    • 錣ろ長さ 8分    2,6cm 
    • 兜周り 4寸1分 13,5cm
    • 太 刀  4寸8分 15,8cm
    • 台高さ 1寸3分  4,3cm 全体高さ 8寸3分27,4cm

ご神体がさつま町に来た経緯:

① 幕末に伊集院出身の有馬新七(寺田屋騒動(1862)で討ち死に)が広巌寺の許可を得て持ち帰り、伊集院に社殿を造営盛大な遷座祭を行った。

② その後、御神体は、鹿児島軍務局、私学校の守護神、鹿児島神宮への合祀

③ 明治10年西南戦争の折、宮之城区長辺見十郎太が、県令(知事)大山綱良の許可を得て、宮之城に避難させ移した。(伊集院や川内が誘致運動をしたが、神のお告げで宮之城に決まった)

④ 明治18年盈進校東先の松尾神社(現焼き肉店一福)に社殿を造営、「湊川神社」と命名した。

⑤ 日中戦争・太平洋戦争への応召兵士は、湊川神社に参詣した。盈進校の児童も一緒に武運長久を祈願し、駅から見送った。

⑥ 昭和16年、戦時体制の中、当時の宮之城町の事業として、城之口の現在地に、町民の勤労奉仕作業によって、用地造成が始まったが、戦局のため中止、戦後、完成遷座された。そのとき、「楠木神社」に改名された。 (重成格知事の揮毫、在任昭和21,7~30/4)

このご神体については、さつま町郷土史研究会会長 三浦哲郎氏のまとめられた資料から引用させていただきました。

楠木正成公(楠公さん)について

皇居外苑にある楠木正成公の銅像

楠公さんは勝利の神様

楠木正成公(楠公さん)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将です。

鎌倉時代の末期、後醍醐天皇は幕府倒幕を計画。楠木正成公が護良親王を擁し、少ない兵で鎌倉幕府の正規軍全4軍とわたり合った籠城戦が赤坂城の戦いです。(500対4万の戦いであったとも言われる)幕府方は目的を果たすことができず、楠木正成公が、初めて歴史の表舞台に姿を現した戦いといわれています。

赤坂城の戦い
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その後、千早城で幕府の大軍と対峙し、ゲリラ戦法や落石攻撃、火計などを駆使して幕府の大軍を相手に一歩も引かず奮戦したのが千早城の戦いです。正成公は後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間、 護良親王とともに幕府勢力に果敢に立ち向かいました。幕府の軍勢が千早城に釘付けになっている間、その活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、足利尊氏が六波羅を攻め落とし、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼすこととなります。

千早城の戦い
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鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇は、建武の親政を行います。(「親政」とは天皇が自ら行う政治)しかし、

この様に、最も厳しい状況から巨大な敵に対し2度も勝利した楠木正成公は、天才軍略家と言われています。

(概要としてWikipediaより抜粋)